村上春樹 スプートニクの恋人

スプートニクの恋人

スプートニクの恋人


 第一印象は――やはり、というべきだろうけど――洒落た小説だと思った。俺が「洒落ている」というとき、大抵は褒め言葉としては使っていない。上辺だけ洒落た世界観を演出していて、中身が薄く、表は洒落たデザインだが、裏生地が安っぽいスーツのような意味合いで使うことが多い。

 だけど、この作品に関しては、読み進める早い段階で、そして読み終わった今もなお、その印象は覆って、より一層深いことを感じる。「なんでかな?」と考えると、俺が小説を好きになるうえで一つの大事なポイントを押さえているからだと思う。そのポイントは『登場人物が大げさなまでの哲学をもっているかどうか』だ。

 哲学を持っていれば良いのではない。持っていないよりは少し位は持っていたほうが良いとも思わない。大事なのは”大げさなほど”の哲学だと思う。小説の中の『哲学』ってのは演劇でいう『身振り手振りのアクション』と近い。演劇では(俺は演劇に詳しくはないけれど……)、現実では絶対にやらない大げさなアクションをする。喜んでいれば両手を高々と上げるし、笑うときは腹を抱えて体を揺らす(そう、『体を震わす』のではなく揺らすんだ)。中途半端なアクションは惨めな印象を与え、アクションが無いよりも悪い印象を与える。

 小説での哲学はまさにこういうものだと思う。ドストエフスキーの作品などを読むとつくづく思うが、あんなに物事を考え、その考えに従って行動し、自分の考えに予期せず背いてしまったときにこれでもかというほど落ち込むことは、普通無い。しかし、その極端な哲学は作者の溢れんばかりのメッセージであり、時として作者の中で矛盾する二つの哲学が小説内でぶつかり合う姿は、痛々しくも感銘を覚える。

 さて、この『スプートニクの恋人』ではどんな哲学が展開されているか。
 主人公はこの小説の語り部である。主要な人物である二人の女性がどういった人物か理解しようとし、かつ、それを否定せずに積極的に認めていく。とにかく認めていく印象がある。登場人物の理解だけでなく、自身のおかれている状況への理解が深い。そしてその理解した状況に良く適応していく。自分の恋愛対象に性欲が無いので、別の相手でその性欲を処理するあたりはまさにそうだ。
 そして残りの二人の女性だが、二人ともとにかくストイックだと思う。二人ともとにかく性欲がない。一人は昔はあったが、ある事情により、「あちら側の世界」に性欲を置いてきてしまった。そして、小説の終わりまでそこに性欲は生まれない。一方もう一人の女性は今まで性欲を持ったことが無いが、初めて性欲を感じた。それもこの女性に対して。
 ここら辺の動きからどう感じるか。それは読み手によるだろうが、取り方はいろいろあると思う。

 散々哲学哲学と言ったが、結局は読み手の理解しだいだとも思うんだな。それを読み取りたいという気持ちにさせてくれる作品はそれだけで、良い作品だと感じる。