Google App Engineでメール送信

Google App Engineでメール送信をする際にはまったので、メモ。

開発用サーバでは自分でSMTPやらユーザ名やらパスワードやらを設定して、その情報をもとにメールを送る仕組みだから簡単だった。ところが、本番用のサーバではそうもいかない(と思う)。

まず第一にSMTPの設定等を行う方法がわからん。
よくわからんが、希望を込めてメールのsenderをgmailのアカウントにしてみたらうまくいった。それはまぁ、いい。そのアカウントは俺が普段使っているものなので、アプリケーションとして公開するメアドにはしたくなかった。だから、別のGMailアカウントをsenderにしてみたが、これがうまくいかない。

あれこれ苦戦した結果わかったこと。

appcfg.pyでアプリケーションのアップロード時に利用するメアドがsenderならばメールの送信が成功する。そこで、本当に送信者として利用したいアカウントにGoogle App EngineのDeveloper権限を与えてやればうまくいく。

久々の更新

いやはや、本当に久々の更新になります。もちろん、もうだれも見ていないことは明白でしょう。

最近では、仕事でSEをやっていて、プライベートで何かを作ることが減り、それに関連して技術系の調査/勉強が疎かになってしまいました。ところが、ふとしたきっかけでGoogle App Engineの存在を知り(本当は知っていたが、見て見ぬフリをしていた)、ムラムラと開発欲が沸き上がってきたのです。

App Engine - Build Scalable Web & Mobile Backends in Any Language  |  App Engine  |  Google Cloud

Googleのインフラを使って自分のウェブアプリを書けるというのは凄い魅力です。ですが、もっと魅力なのは「作ったアプリをそのまんま簡単に公開できる」ことだと思うのです。例えば、Perl+MySQL+Apacheなんて組み合わせのサービスを作ると、その環境で動かせるサーバのレンタルが必要になります。自宅でその環境を作ることは簡単でも、意外とレンタルだと苦労するんです。個々のソフトウェアのバージョンが違ったり、とかね。

ところが、Google App Engineはその手の問題を感じさせません。とにかくコードを書いてしまえば、そのままGoogleのインフラに乗って動く。そのかわり、サーバのレンタルではないから細かいことはやりにくそう。例えば、自分でシェルスクリプトを書いておいて、一定時間毎に実行するのは出来なさそうな気がします。Googleの発表でも「サーバのレンタルではなく、アプリケーションのホスティングだ」ということを言っていました。

アカウントを無料で作れるはずなのだけど、SMSによる認証が必要だったりする。
日本からだとそれがエラーになる(うまくいくケースもあるみたい)。

開発環境はダウンロードすればすぐに使えます(本当に簡単)。
言語はPythonを使う。俺は産まれて始めてちゃんと見たんだけど、すぐに書けた。

ユーザからのフォームを受け取って、DBに書き込み、ちょっと処理して、Google Mapに表示、っていうものを2時間ちょっとで作れました(Python始めてなのに)。凄い開発効率を発揮できるかもしれない!!!

椎名誠『銀座のカラス』

銀座のカラス〈上〉 (朝日文芸文庫)

銀座のカラス〈上〉 (朝日文芸文庫)

銀座のカラス〈下〉 (新潮文庫)

銀座のカラス〈下〉 (新潮文庫)

 最近、少し古い作家の作品ばかり読んでいる。少し古いというのは例えば1800年代後半から1900年代前半あたりだろうか。別に「昔の作品はこんなに良いのに、最近のは駄目だなぁ」なんて思っているわけじゃない。ただ、読んでみたい作品がたくさんあって、なかなか現代の作品にまで手が回らないのだ。

 それでも時々現代の作品に手を出す時がある。理由なんて無いが、最近の本を読みたい衝動に駆られるのだ。そして手に取った一つの本がこの『銀座のカラス(上下)』だ。椎名誠はエッセイとSFのイメージがあるのだけど、どうもこの作品はそうじゃないみたいだ、というのが興味をそそった。図書館で借りて、家でページを開いて苦笑した。1994年発行だった。やっぱりちょっと古いのね、と妙な愛着のようなものを感じる。

この作品は椎名誠氏の私小説的なものになっている。とはいえ、登場人物は架空の人物が割り当てられていて、普通の小説としても読める。というよりも、そう読むのが正解だと思う。登場人物を見て「これが椎名誠か」なんて考えず、生き生きと小説に生きる登場人物として捕らえたほうが良い。実際彼らは生々しく、必死に生きている。不満があったり、葛藤があったり、反撥したり、警察に捕まったり……。

 読んでいて「俺はこれくらいがんばって生きているかな」なんて考えてしまった。別に彼らがスーパーマンのように華やかな人生を送っているわけではない。失敗したり、諦めたりもする。しかし、少し落ち込んでもちゃんと立ち直る。人間関係がうまくいかないこともあるが、これも諦めたりしつつも、模索して状況を打開していこうとする。

 銀座の小さな出版社に勤める男の泥臭い生き様がとても良く表現されていて、椎名誠氏の表現力の豊かさを感じる作品になっている。

 彼のエッセイが好きな人は読んでみるといいだろう。

 太田 潤 『野宿料理の本』

野宿料理の本―ナチュラル・クッキング (Outrider book)

野宿料理の本―ナチュラル・クッキング (Outrider book)

 小説ではないのだけど、せっかく買って読んだのだから、感想を書きたいと思う。

 本書はタイトルの通り、野宿時に作りたい料理本だ。野宿って言っても浮浪者という意味じゃない。あえて言えばキャンプ時に作るという意味なんだけど、正確にはそれとも違う。キャンプと野宿の違いが分からないと本書の立ち位置が見えてこないと思うので、説明したいと思う。
 言葉が与えるイメージの問題なんだけれど、今の時代にキャンプというとオートキャンプをイメージする人が多いと思う。家族か仲間でカレーやバーベキューといった料理をワイワイと作り、過ごすアレだ。だから、キャンプ料理というとそういうワイワイと作るやつをイメージする。キャンプ自体が目的だから荷物も多いし、キャンプ場で過ごす時間が長い。
 一方野宿はといえば、(キャンプ場に泊まるのか、純粋に野宿するのかという違いはともかく)一人か数人で質素にやるものだ。あくまで昼間に旅をするのがメインであり、泊まるためだけに野宿するというスタンス。だから、大荷物を広げたりもしないし、あれこれ食べ物を持っていかない。少く、簡単な用意で済ませる。

 この違いが理解できると本書の立ち位置が見えてくる。この本はあくまで野宿料理だから、複雑なレシピは一切無い。鍋が三つも四つも必要なものもない。3時間も4時間も煮込むようなものも、もちろんない。スーパーでサラッと買えて、サッと作れるものが紹介されている。
 しかもサッと作れるわけにはうまいし、作る楽しみのあるレシピが多い。他にも野宿系の料理本はあるのだけど、極端に手抜き料理(暖めるだけとか)で作る楽しみは少なかった。

 長年旅をしてきた著者だからこそ出来た一冊だと思う。料理の写真はみんなカラーで、家で作ってみたいものも多い。良書だと思う。

村上春樹 スプートニクの恋人

スプートニクの恋人

スプートニクの恋人


 第一印象は――やはり、というべきだろうけど――洒落た小説だと思った。俺が「洒落ている」というとき、大抵は褒め言葉としては使っていない。上辺だけ洒落た世界観を演出していて、中身が薄く、表は洒落たデザインだが、裏生地が安っぽいスーツのような意味合いで使うことが多い。

 だけど、この作品に関しては、読み進める早い段階で、そして読み終わった今もなお、その印象は覆って、より一層深いことを感じる。「なんでかな?」と考えると、俺が小説を好きになるうえで一つの大事なポイントを押さえているからだと思う。そのポイントは『登場人物が大げさなまでの哲学をもっているかどうか』だ。

 哲学を持っていれば良いのではない。持っていないよりは少し位は持っていたほうが良いとも思わない。大事なのは”大げさなほど”の哲学だと思う。小説の中の『哲学』ってのは演劇でいう『身振り手振りのアクション』と近い。演劇では(俺は演劇に詳しくはないけれど……)、現実では絶対にやらない大げさなアクションをする。喜んでいれば両手を高々と上げるし、笑うときは腹を抱えて体を揺らす(そう、『体を震わす』のではなく揺らすんだ)。中途半端なアクションは惨めな印象を与え、アクションが無いよりも悪い印象を与える。

 小説での哲学はまさにこういうものだと思う。ドストエフスキーの作品などを読むとつくづく思うが、あんなに物事を考え、その考えに従って行動し、自分の考えに予期せず背いてしまったときにこれでもかというほど落ち込むことは、普通無い。しかし、その極端な哲学は作者の溢れんばかりのメッセージであり、時として作者の中で矛盾する二つの哲学が小説内でぶつかり合う姿は、痛々しくも感銘を覚える。

 さて、この『スプートニクの恋人』ではどんな哲学が展開されているか。
 主人公はこの小説の語り部である。主要な人物である二人の女性がどういった人物か理解しようとし、かつ、それを否定せずに積極的に認めていく。とにかく認めていく印象がある。登場人物の理解だけでなく、自身のおかれている状況への理解が深い。そしてその理解した状況に良く適応していく。自分の恋愛対象に性欲が無いので、別の相手でその性欲を処理するあたりはまさにそうだ。
 そして残りの二人の女性だが、二人ともとにかくストイックだと思う。二人ともとにかく性欲がない。一人は昔はあったが、ある事情により、「あちら側の世界」に性欲を置いてきてしまった。そして、小説の終わりまでそこに性欲は生まれない。一方もう一人の女性は今まで性欲を持ったことが無いが、初めて性欲を感じた。それもこの女性に対して。
 ここら辺の動きからどう感じるか。それは読み手によるだろうが、取り方はいろいろあると思う。

 散々哲学哲学と言ったが、結局は読み手の理解しだいだとも思うんだな。それを読み取りたいという気持ちにさせてくれる作品はそれだけで、良い作品だと感じる。

志賀直哉 『灰色の月・万暦赤絵』

灰色の月/万暦赤絵 (新潮文庫 し 1-6)

灰色の月/万暦赤絵 (新潮文庫 し 1-6)

 わが尊敬する志賀直哉の短編私小説集。ちょっとばかり読んでから時間が過ぎてしまい、具体的な感想を書くに忍びない。というか書けない。

 だから今日のところは抽象的な内容に終始したいと思う。また、近々図書館に行って同じ本を借り、具体的な感想を書きたい。

 
 志賀直哉の作品は私小説が多い。私小説というよりも随筆的なものが多いようにも思う。それも飾らず、マイペースで、自分は悪くないという意識の塊だ。すべて実はなのかは知らないが、内容を真に受けるのであれば、浮気も堂々とするし、それを奥さんに割りとサラッと告白してしまうし、舌の根も乾かぬうちに小説にして発表してしまう。挙句に奥さんには「読まないほうがいいよ」というコメント。そしてその小説には「まだ未練がある」と軽く書き流す。

 まさに『女遊びも芸の肥やし』だ。そして、俺だけかもしれないが、志賀直哉がそういった内容のことを書いても嫌悪感を感じない。それが文章・文体によるものなのか、単純に志賀直哉が好きだから、贔屓目で見てしまうのかは分からないが、とにかく許せるのだから仕方が無い。

 初めて志賀直哉を読む人にはこの本よりも「小僧の神様」が収録されたものをお勧めする。

武者小路実篤 『お目出たき人』

お目出たき人 (新潮文庫)

お目出たき人 (新潮文庫)

 はっきり言って読み終わって数日が過ぎた今でもこの作品に対して混乱している。武者小路実篤は何を訴えたかったのか? 別に何も訴えていないのか?

 もしも、何も訴えていないのであれば、少し安直な内容だと思った。全体のあらすじはこうだ。

 主人公はある女性を好きになる。とにかく、ほかの女性が目に入らなくなるくらい好きになる。そこで、知人を通してその女性に好意があることを伝えてもらう(余談だけれど、『知人を通して』という件は今読むと遠回りでもどかしいやり方だが、当時は自然なやり方だったんだろう。志賀直哉等の同世代の作家の作品でも頻繁に出てくる行動だ)。そして知人を通して聞いた返事はNoだった。しかし、主人公は思う。「断られたのはまだ女性が若いからだ」と。
 その後もストーカー的な妄想を繰り広げ、「女性は本当は自分のことが好きだが、親に止められている」とかただひたすらに自分に都合の良い方向に物事を考える。あくまで、自分と結婚することが彼女の幸せなのだと信じてやまない。最終的にその女性は別の男と結婚してしまうが、それに対しても「やさしい彼女は親の言いなりになってしまい、好きでもない男と結婚してしまった。今でも彼女は自分と結婚したがっている」と信じる。

 そう。まさにおめでたい人なのだ。

 このような人物を描くことで武者小路が何を訴えたかったのかを考えた。しかし、まだ分からない。すぐに考え付いた説を羅列していつか理解できる日を待ちたいと思う。

 説1: 人間の理想は突き詰めれば、こんな馬鹿げたことになるという皮肉

 良く恋愛に関してこんなアドバイスを聞く。「とにかく相手を信じろ」「好きならば諦めるな」「愛は盲目的であれ」、と。さらに言えば、「相手に恋人がいようが、奪う気持ちでいけ」とも聞く。それをただひたすらに実行に移したのがこの主人公なのではないだろうか? とにかく盲目的で、相手を信じ、相手に恋人がいようとも曲がらないその気持ちは酷くまっすぐだ。

 しかし、読んだ人は十中八九「馬鹿な男だ」と考える。ここに恋愛の”一般的な”理想論を突き詰めていくとこうなってしまうという皮肉を感じた。

 説2: 理想はこうあるべきだというメッセージ

 これは、まさか無いと思うが、武者小路の理想の恋愛感がこうであるというのは0%ではないかもしれない。ただし、そうだとしたら、読者から共感を得にくいという点で失敗だったのかもしれない。思い込みかもしれないが、武者小路は理想像を書く作家に見えるから、この説を思いついた。


 もっと深いメッセージがあるのだろうか。それを考えること自体が間違っているのかもしれない。